「富士ニュース」平成21年5月12日(火)掲載

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Meiso Jouki

  新緑の風薫る好時節となりました。竹箒を手に朝の境内でお掃除をしていると、鳥たちのさわやかな声が聞こえてきます。

「チョットコーイ チョットコーイ」(ちょっと来い!)と、足元の茂みから声を張り上げる元気な小綬鶏の家族連れ。飛びながらも「ピーーッ ピーーッ」と騒々しい鵯。染井吉野桜の古木に群れる四十雀は「ツツピーツツピー」。
 そんな中、ひときわのびやかに、鴬の澄みきった声が響き渡ります。ここ妙善寺は、木々に囲まれた谷のような景観ですので、さえずりがことのほか美しく耳に届くのです。
 その声が「ホーホケキョ」(法、法華経)と聞こえることから「経読鳥」の異名を持つ鴬ですが、古くからの道歌(教訓的な短歌)にはこんな風にも登場して、仏教の伝道に一役買ってくれています。

「仏法は 障子の引き手 峰の松 火打ち袋に 鴬の声」
 何のことなのかさっぱり…という方もおいででしょうから、一般的な解釈を少々させていただきます。
 今ではずいぶん減りましたが、かつてはほとんどの家に障子がありました。障子には両面に引き手がついています。この引き手がなくてもなんとか開け閉めすることはできますが、あればやはり便利です。仏教の教え「仏法」とはこういうものだというのです。
 かつて歩いて街道を往来していた人々にとって、山の峰に生える松は、道案内の大事な目印でした。この松を見上げては(ああもう少しで峠だ)とか、(松がだいぶ大きく見えてきた。目的地はもうすぐだ)と、勇気づけられまた慰められもしたことでしょう。峰の松も、どうしてもなくてはならないものではありませんが、あれば心の支えとなったのです。

 さらに…ライターもマッチもなかった時代、点火は火打ち石セットに頼っていましたが、いくつかある道具のうち、何か一つ欠けても火は点きません。その道具をまとめて保管しておける火打ち袋は、必要不可欠ではないにしても、あれば便利な袋だったのです。
 ことほどさように鴬の声。あのさえずりを聞かなくても春の訪れは感ずることができますが、耳にすれば(ああ、春が来たんだなぁ)と、しみじみ心和むのではないでしょうか。

 もうおわかりでしょう。ここに挙げられたものはいずれも、「なくて暮らせないというものではないけれど、あればあったで心強いし、ありがたい」というものなのです。
 仏教の教えとは…なくても生きていけるものなのかもしれませんが、和尚だけが握りしめているべきものでもないのです。私たちの日常生活でどんどん便利に使い、このいのちを価値ある生き方にするために役立てていくものなのです。

 鴬のさえずりのように、人々の心に届き、心和ませることができるよう、私も努めなければならないと感じています。

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明窓浄机

鶯 の 声

文・絵 長島宗深