「富士ニュース」平成18年4月11日(火)掲載
第88話
Meiso Jouki
■ ころころころ…。
季節はずれの鮮やかなビーチボールが、突然目の前に転がってくるのが、運転する車の窓越しに見えました。
お寺の近くの小さな交差点を通過しようと、ゆっくりと車を走らせていた時のことです。
静かにブレーキを踏んで停まると、かわいいアニメのキャラクターが描かれたそのビーチボールは、春風と戯れるかのように、ゆらりゆうらりと行きつ戻りつして、私の車のボンネットの陰に隠れてしまいました。
(きっと後から子どもが追いかけてくる!)
そう直感した私は、ほとんど車が通らないのをいいことに、そのまま待っていました。
■…と…誰も、やってくる気配がありません。
(しかたない)と、黒衣姿のまま車を降りてボールを拾い上げ、あたりを見回しましたが、やっぱり誰もいません。おそらく近所の誰かが遊び終わってそのまま忘れていったのでしょう。
(さて、どこに置いておけば見つけやすいかな)と、行く当てのないそのボールを持ったままキョロキョロ迷っていると、後ろの方から元気な声が聞こえました。
「あれまあ。なに、わざわざ降りてきてくれたんだ。ありがとう!」
(持ち主かな?)と振り返ると、それはついさっきそこで追い越したばかりの、見知らぬおばあさんでした。
通りすがりに私の一部始終を見ていたのでしょう。ニコニコ笑いながら歩きしなにそう私に声をかけると、立ち止まりもせずに、そのまま、すたすたと歩いていってしまったのでした。
どう考えても、おばあさんのボールではありません。
(それなのに、どうして私にお礼を?)
私は、おばあさんが残していったこの「ありがとう」のひと言が、とても不思議に思えました。
(自分のことでもないのにどうして、こんなにあっさり、ありがとうと言えるのだろう…)と。
■ 仏教(禅)に、「自他不二」という言葉があります。
自分と他人は「不二」(二ならず、別々ではない)、あなたと私はひとつですよ、という教えです。
すなわち、相手が喜んでいるときは自分のことのように喜び、相手が悲しんでいるときは自分のこととして悲しみを共にする。自分と相手との間に垣根を作らない、全部「私のこと」として受け止めていく、そんな仏さまの心のあり方のことです。
もし相手が物の場合でも同じです。もし不注意でお鍋をガチャン!とぶつけたら思わず自分が「痛い!」と叫んでしまうような…。
おばあさんは、自分が持ち主でもないのに、持ち主ならきっとそうしたであろう「ありがとう」の言葉を、とっさにかけずにはいられなかったのですね。
こうありたいと願ってはいても、なかなかそうはなれないものですが、私はこのおばあさんの「ありがとう」のあたたかなひと言に、自他不二の仏さまの姿を見た思いがしたのでした。
自他不二
文・絵 長島宗深