「富士ニュース」平成17年6月7日(火)掲載
第77話
Meiso Jouki
■ 先日、井深の里(岐阜県)を訪ねました。
私たちの本山・妙心寺(臨済宗)の開山さまゆかりの「坐禅石」をお詣りするためです。
数十人のお坊さんと登り始めた山道。一人の老僧が立ち往生してしまいました。無理もありません、ご高齢の上、法衣に草履ばきだったのです。律儀な方ですから、ゆかりの地を訪れるのに、私たちのように作務着に運動靴の軽装では失礼だ、と判断されたのでしょう。
それでも途中までは、茶人帽から汗を流し、裾たくし上げ、杖をついて、まるでいつか絵で見た俳人・芭蕉の旅姿のようにがんばられたのですが…。ついに断念せざるを得ませんでした。
■ 残念そうな老僧を置いて、ようやくたどり着いた岩だらけの山頂。
私はふと思い立ち、手ごろな小石をひとつ拾いました。
ずいぶん前にインド仏蹟巡拝した際、霊鷲山という岩山の頂で拾ってきた石が、今も本尊さまの前に供えてあることを思い出したからです。
その山は、お釈迦さまが、『法華経』を始め、数々の大事な教えを弟子たちに説かれたという聖地です。二千五百年前とはいえ、この石はきっと、お釈迦さまの教えを聞いたに違いない、お釈迦さまの説法がじかに染み込んだ尊い石なのだ、と信じたからです。
場所は違えど、今回、同じように岩だらけの山頂に立ち、(ああ、ここは、開山さまが、昼間は里人の農耕や牛追いを手伝いながら坐禅修行をされた岩山だ)と思うにつけ、開山さまの「気」が込められたその小石を、本堂におまつりしたいと思い立ったのでした。
私は、その場で、もうひとつ、石を拾いました。山道の途中で待つ老僧が、ここまで訪ねられた証しにいかがか、と考えたからです。
■ バスに戻り、座席で休む老僧を見つけた私は、(荷物になるかな?)と案じながらも、
「山頂の坐禅石のそばの小石です。よろしかったら、参拝の記念にいかがですか?」
と、差し出しました。
突然の申し出に、きょとんと私と小石を交互に見比べた老僧は、一瞬黙った後、静かに私の手を押し戻してこう断られたのです。
「こんな大事なものは、いただけません。あなたが、どうぞ」
「私の分は別にありますから…」と説明すると、老僧は一転して子どものように目を輝かせ、「ほんと?本当にいいの?」と、こちらが困るくらいにはしゃいで、受け取ってくださったのでした。
「うれしいなぁ。私はあちこちの聖地で拾った石をお寺の一か所に集めて、みなさんにお詣りしていただいているんだよ。いやぁ、うれしい。衆生無辺誓願度だ」
■ 私に向かって合掌され、唱えてくださったお経の一節。ありがとう、という言葉の代わりに発せられたその一句は、命は無数にあるけれど、私は力の限り、どんな命をも救おうとしていくぞ、という誓いの言葉です。私の大好きな一句です。
開山さまをご縁とし、老僧と同じ誓いを心に刻みあったような、何よりうれしいお礼の言葉でした。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
文・絵 長島宗深